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元治元年10月3日(1864年11月2日)

【京】徳川慶勝、副将松平茂昭・老中稲葉正邦・大目付永井尚志・目付戸川忠愛等と会し、軍務を議す
【坂】】勝海舟、阿部正外から京都での努力を聞き、感じ入る

☆京都のお天気:晴 (『嵯峨実愛日記』)

>第一次幕長戦へ
【京】元治1年10月3日、前尾張藩主徳川慶勝は、征長副将松平茂昭・老中稲葉正邦・大目付永井尚志・目付戸川忠愛等と会し、軍務を議しました

この結果、(1)大小目付を芸州へ派遣し、長州藩家老への長州追討の朝命と総督以下諸藩出兵の次第を伝達すること、(2)進軍の日程は副将松平茂昭の都合で定めること、(3)制札を立てること、(4)総督・副将下坂の日時は江戸から軍令状が届き次第決定すること、(5)副将が九州諸藩兵を指揮できない場合は山陰道の指揮にあたること、などが決まりました。

<ヒロ>
慶勝は、9月23日、総督を請けるにあたって全権授与を求めるなど権限に関する上書を提出していました(こちら)。24日には、茂昭に対し、権限に関する幕府の指令が届けば下坂・軍議を開くと述べたうえで、将軍徳川家茂進発の要を説いていました。この慶勝の態度は、越前藩には腰が引けていると映っていたようで、会津藩に様子を探りにいったりもしていました。

参考:『越前藩幕末維新公用人日記』『維新史』四p136(2018/8/5)
関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦

>勝海舟・軍艦奉行罷免へ
【坂】元治1年10月3日、軍艦奉行勝海舟は、海路東帰のため下坂してきた老中阿部正外に面会し、京都での阿部の尽力を聞いて、大いに感じ入りました

勝は、この日、軍艦翔鶴丸で神戸から大坂に出て、老中阿部正外に面会しました。(阿部は、10月1日、暇乞いの参内をし、2日に京都を出立し、海路東帰するために大坂に着いてました)。阿部から、朝廷へ、この2〜3年の事情を委細腹蔵なく話したこと、その結果、征長優先、鎖港攘夷は一時猶予が許されたことをきき、「豊後殿の苦心感ずべし」と、日記の10月3日条に記しました。

<ヒロ>
相変わらず勝の阿部正外への評価は高いです。阿部が、越前藩の提案した勝海舟の重用を保留したこと(こちら)や、越前藩による諸侯会議の建策を否定したこと(こちら)は、伝わっていなかったのかもしれません。

参考:『勝海舟全集』1,p166
関連■勝海舟@元治1年

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